分析と持論を書いていく処

分析・仮説・持論を滔々と述べています|異論は認めます│こんな世界の見方もあるのだなという気付きを得て、楽しんでいただいたり、問題解決に役立てていただければと存じます

西洋哲学史区分を論文風にまとめようと思ったけどやめた書きかけを置いておきます。興味ある方の参考になれば幸いです

はじめに


 ヴィンデルバント(W.Windelband,1848‐1915)によれば、「哲学史はすなわち哲学的な問題形成の作業場でありまた体系への準備であるべきである」という。(岡崎1988:112)

ヴィンデルバントによるこの言葉は、哲学的な問題形成のためにどう哲学史を捉えるかという提案である。私は、このように哲学史の捉え方に気を配ることは、哲学という学問領域内で問題に取り組むために重要なことであると考える。ゆえに、まずは、一般的な西洋哲学思想史の捉え方を明らかにする必要があろう。そのため、本稿では、原佑らの著『西洋哲学史〔第三版〕』の内容を整理する。というのも、この著では、一般的な哲学史の区分が行われているためである。具体的には、はじめに、古代の哲学の時代区分を整理したのち(1・1)、なぜそのような時代区分がなされたのか考察する(1・2)。第二に、中世の哲学の時代区分を整理したのち(2・1)、なぜそのような時代区分がなされたのか考察する(2・2)。第三に、近世の哲学の時代区分を整理したのち、(3・1)、なぜそのような時代区分がなされたのか考察する(3・2)。最後に、現代の哲学の時代区分を整理したのち(4・1)、なぜそのような時代区分がなされたのか考察する(4・2)。

第一章 古代の哲学

1・1 時代区分

原らによれば、古代の哲学は通常三つの時代区分がなされるという。一つ目は、アテナイ期の哲学の時代である。二つ目は、「ソクラテス以前の人々(Vorsokratiker)」の、或いは、「自然哲学者たち」の哲学の時代である。三つ目は、ヘレニズム期(およびローマ帝政期)の、或いは、「世界市民(kosmopolitai)」の哲学の時代である。(原ほか2000:6)

古代の哲学は、一つ目のアテナイ期の哲学を中心として、それ以前を二つ目のように、それ以後を三つ目のように呼称することが多い。(6)

三つ目の期間は、ほぼ紀元を境にして、倫理哲学期と宗教哲学期に区分されることもあり、この場合、後者はキリスト教登場の時代と重複する。しかし、通常は、思想系譜上、紀元前529年ユスティニアヌス帝の禁令による、アテナイにおけるギリシア哲学最後の脈絡の消滅までが、古代哲学とされる。(6)

「また、デモクリトスは、年代上はソクラテス「以後」であるが、思想内容から一般に「以前」に編入される慣例がある」(6)

1・2 考察

(略)

第二章 中世の哲学

2・1 時代区分

原らによれば、中世の哲学は通常三つの時代区分がなされる。一つ目は、教父哲学の時代である。二つ目は、スコラ哲学の時代である。(51)

一つ目の時代について、思想上は、「イエス・キリストによる真理をめぐっての人間の新段階を、教義として確立し、哲学の風土のうちに表現しようとした」時代であり、時間上は、「その大半が古代末期に属し」ている時代である。(51)

二つ目の時代について、思想上は、教会付属の学校(スコラ)での方法によってその教義が再構成された時代であり、時間上は、「九世紀のいわゆる「カロリンガ期のルネサンス」以後、十三世紀の最盛期をへて、ルネサンス直前までの、狭い意味での中世時代に属」している時代である。(51)

原らによれば、「哲学」を特殊近代風な術語として使用すれば、中世に哲学はなく、「神学」があるのみであるという。しかし、彼らによれば、「神」は安易な簡易な観念で充足されてはならない問題性そのものである。「「神」とは、ただ「汝」として呼びかけられつつ、言い知れぬ根拠として、未だ面を合わせて見ることなく、しかもなおわれわれをその道に歩ましめるものであり、かつわれわれに知るべきはただそれのみとして、あくまでもその充足された直視に至ろうと努力させずにはおかぬものである。(…)それなくしてわれわれの生き、また充全に生きる能わざるところのものなのであり(それなしで我々は、生きることや充全に生きることができないのであり)、真理そのものの謂いに(という意味に)ほかならない。」(51)「ゆえに真理への途たる哲学(真理への道である哲学)は「神学」のと呼ばれる問題をも、それが哲学の途にかかわるかぎり回避すべきではない。」(51)

2・2 考察

(略)

第三章 近世の哲学

3・1 時代区分

 原らによれば、通常、14世紀から19世紀に至るまでが、近代哲学の時代とされる。また、この哲学の時代は一般に二分される。一つ目は、カント以前の哲学である。二つ目は、カント以後の哲学である。(91)

 一つ目の時代は、オッカムを一例として14世紀にスコラ哲学の内部崩壊が顕著となり、経験的知識が重視されるようになるとともに、人間の理性が自己を主張し独歩を開始することで始まる。(91-2)

この時代は、第一に「ルネサンス(Renaissance)」として始まり、第二に「宗教改革(Reformation)」を経て、第三に「イギリス経験論」と「大陸の理性論」の対立が起こる。(92)

(中途)

[文献]

岡崎文明,1988,「西洋哲学史研究序説(二)-哲学史の時代区分-」,高知大学学術研究報告人文科学編37巻:111-145,高知大学.

原佑ほか,2000,『西洋哲学思想史〔第三版〕』,東京大学出版会.

お読みいただきありがとうございました。
参考になれば幸いです。

豚と肉屋 Pigs and butchers

とある村に
豚たちと肉屋がいました。

ある日、
肉屋は豚たちに
自分の仕事を手伝うようにと
言いました。

ある豚は、
肉屋を信じていたので、
肉屋を応援しました。

ある豚は、
自分も肉屋であると思っていたので、
肉屋に手を貸しました。

ある豚は、
きっと自分は肉屋になれると思っていたので、
肉屋に味方しました。

数ヶ月後、
その豚たちはすべて、
屠殺され出荷されるか、
数日間腹持ちする程度の餌を与えられてから、
肉屋の出した残飯の処理をさせられました。

肉屋の出した残飯は
豚の身体には合わず、
ある豚はしに、
ある豚は苦しみながらも
なんとか生き残りました。

肉屋からみれば、
どんなに肉屋らしく振舞っていても、
どんなに肉屋に友好的でも、
豚肉は豚肉だったのです。

○○

とある肉屋は、
隣の肉屋にいつ豚にされるかと
怯えていました。

そこで肉屋は
自分が豚にされる前に
隣の肉屋を消そうと考えましたが、
相手も同じことを考えていました。

肉屋にはすきな人がいましたが、
その人も自分を豚にするのではないか、
あるいは、
その人も豚なのではないかと思い、
消してしまいました。

また、とある肉屋は、
隣の肉屋の豚が欲しくなりました。

そこで肉屋は
隣の肉屋を消して
豚をいただこうと思いましたが、
相手も同じことを考えていました。

この肉屋にもすきな人がいましたが、
その人が
できのいい豚のように美味しそうだったので
食べてしまいました。

そしてこの消しあいは
肉屋が一人になるまで続きました。

さらに肉屋は、
豚たちが自分を噛みつきに来ることにも
怯えていました。

そこで肉屋は
自分に噛みつけないように
豚たちのすべての歯を抜きました。

ある時は、
豚たちの革が欲しくなったので、
豚たちの皮膚を剥ぎ取りました。

豚たちは苦しみ
一斉に啼き声をあげましたが、
肉屋はこの騒音によって
夜に眠れなくなってしまったので、
豚たちの喉を潰して
啼き声が出ないようにしました。

こうして畜舎
とても静かになりました。

肉屋は、
自分が豚たちと違って
風呂にも入るし
本も読むし
文字も書けるし
服も着ているし
計算だってできるから、
豚たちは
憐れで醜く汚いものだと
思っていました。

なので、
豚たちに自分の残飯を食べさせたり、
豚たちを屠殺することは、
そんなひどい生活をする豚たちを
苦しみから解放してあげる
せめてもの慈悲だと
肉屋は考えていました。

ですが、豚たちは
本も読まないし、
文字も書けないし、
計算もできないので、
肉屋のそんな慈悲の気持ちも
肉屋の言葉も
わからないようでした。

すきあらば畜舎を壊したり
畜舎から逃げ出したり
肉屋に噛み付こうとするので、
肉屋は日々、
悲しみや失望や怒りを
感じていました。

そこで肉屋は
豚たちを
一匹づつ縄でつなぎ
肉屋の食事となる作物のための土を
耕させることにしました。

土を耕さない
面倒くさがりな豚や
他の豚を食ったり
縄を食いちぎる
凶暴な豚は、
屠殺して豚たちの餌にしました。

こうして肉屋は一人、
静かな畜舎で、
すきな人に愛されないので、
鏡にうつる自分をみつめて
完璧な自分にうっとりするか、
永遠なものに思いを馳せて、
土を耕す豚たちを
眺め続ける日々を送りました。

○○

A certain pig supported a butcher
because it believed in the butcher.

Another pig helped a butcher
because it thought it was also a butcher.

Another pig took side with a butcher
because it thought one day it would be a butcher.

Then pigs were slaughtered and shipped out
or feeded few food as much as pigs were full few days and made to dispose of butcher's food waste.

This butcher's food waste didn't fit pig's body,
so some pigs were dead and some just barely remained alive in agony.

For butchers,
no matter how alike pig's behavior and butcher's looked
no matter how friendly pigs were to a butcher
pork were just pork.

厭世的な考え方かもしれませんが、俗に言う幸福とは幻想であり、例えば、豊かになるために金儲けや力を欲すること、快楽やポジティブな感情・感覚を得ようとすることなどは、死ぬ迄の暇潰しであるように思います。

若しくは、恐怖や無力感や罪悪感といった感じたくない感情を紛らわす・から目をそらすための酒のようなものであるとも思います。

つまり、上のような“幸福”は人生において、本質・普遍的真理ではないように思う、という意味です。

では普遍的真理とは何でしょうか。

個人的には、今の所、時空・死(生)・今現在の瞬間、であると思っています。

お読みいただきありがとうございました。
今日も良い一日をお過ごしください。

f:id:give-info:20201122052551j:plain

自慢には、自身の偉大さを語るものだけでなく、自身の悲惨さ・悲痛さを訴えるものもあるように思います。

無力な自分に絶望しているのかもしれません。

どちらも、優越感/劣等感や嫉妬の制御(認識、受容)を放棄した外部への働きかけであるように思います。

お読みいただきありがとうございました。
今日も良い一日をお過ごしください。

f:id:give-info:20201122052551j:plain

完全さと強さを求めるほど、感受性は麻痺し、悲しくても涙が出なくなり、嬉しくても笑わなくなり、自分の気持ちを感じられなくなり、どんなことでも怖れも喜びもなく淡々とこなしていき、常に冷静で、規範や信念に忠実で、ミスもせず、リスクも取れるようになっていくように思います。

ロボットのような状態かもしれません。

しかし、完全さと強さとは、こういうことなのか甚だ疑問です。

将来人間は、機械に記憶や意識を移して、ロボットのような生を享受できるようになるのかもしれません。

そのような場合、体調も変化せず病気もせず怪我もせず老化もしないので、コンディションは一定で、判断や決断のミスもしない。痛みや恐怖や欲望もデータとして理解しているに過ぎない。

すると、まさしく完全で強いと表現できるように思いますが、何事もトレードオフで、そうなると、不完全や弱さに意味を見いだせなくなるように思います。

お読みいただきありがとうございました。
今日も良い一日をお過ごしください。

f:id:give-info:20201122052551j:plain