分析と持論を書いていく処

分析・仮説・持論を滔々と述べています|異論は認めます│こんな世界の見方もあるのだなという気付きを得て、楽しんでいただいたり、問題解決に役立てていただければと存じます

学校に適応する秀才と学校を適応させる天才

1.私の中で、秀才とは、学校(社会)に適応した人です。

彼らは、やればできる、という信念を持ち、努力や達成を好むように思います。

そのため、どこまでが自分のできることで、どこまでが自分のできないことか、という区別をつけないと、嫉妬や競争に陥ることになるとも感じます。

また、平等や正義、規律や秩序や調和を好み、常に全体を俯瞰し、自身をその中で位置づけ、その中で役割を果たそうとするようにも思います。

大抵、学級委員や生徒会長やエリートになるイメージがあります。

彼らは、好き嫌いがない、あるいは、好き嫌いを禁じる、あるいは、好き嫌いで判断・行動することを嫌うように思います。

そして、どんな人も物事も、まずは、少しだけ受容するようにも感じます。

食べ物の食べ方に例えるならば、あらゆる種類の食べ物を平等に一口ずつ、先入観なく、飽きない程度に食べていく、というイメージです。

彼らは、女とも男とも、大人ともこどもとも、善人とも悪人とも、理性的とも感情的ともいえない、曖昧として非個性的であるという個性を持った、態度・風貌・言動を示すように思います。

そのため、誰からもある程度好かれ、ある程度嫌われ、ある程度無視され、ある程度愛されるようにも思います。

この新しいものへの挑戦、好奇心、視野の広さの獲得(全体を見る能力向上)が、彼らの好きなことで、目的であると感じます。

広く浅く、乗り物を駆使してなるべく遠くまで移動領域を拡大していくイメージで、外交的な(意識が外・世界に向いている)のではないでしょうか。

そのため、その人・食べ物自体に興味があるわけではないように思います。

また、彼らは、たとえば、アリストテレスが、すべての学問の構造を形づくる学問を論理学としましたが、このような、すべての事象において通用する法則や規律を好む傾向があると思います。

そのため、公人(パブリックに生きる人)であり、ゼネラリストのスペシャリストと言えるのではないでしょうか。

2.一方、私の中で、天才とは、学校(社会)を自身に適応させる人です。

彼らは、できないことはできない、と諦めているため、努力は好まないように思います。

よく、授業で寝ているのに点数がよい天才、という話がありますが、あれは、彼らが自分のルーティンに学校の時間割を合わせているのではないでしょうか。

彼らは、個人主義や自由、独創性を好み、自分だけの個の世界を持っているため、全体は個から成る、と考えているように感じます。

また、没個性的な競争や自由を妨げる規律や法則を嫌うようにも思います。

そして、好き嫌いが激しい、あるいは、好き嫌いがはっきりわかれている、あるいは、好き嫌いがあることを好むように思います。

自身の好きなものや事象をとことんすべて受容する気がします。

食べ物の食べ方に例えるならば、自分の好きな食べ物一品だけを、お腹がいっぱいになるまで、もしくは、飽きるまで、食べ続ける感じです。

しかし、そのラインが常軌を逸しています。つまり、大食いか、極度の偏食であるというイメージです。

ゆえに、彼らは、偏った変人になると思います。誰ともわかりあえず、孤独になるとも思います。死後何世紀にも渡って、その業績が、誰にも理解・評価されないこともしばしばあるのではないでしょうか。

ある人からはとことん嫌われ、ある人からはとことん好かれ、ある人からはとことん無視され、ある人からはとことん愛されるように思います。

ある一つのもののすべてを知り尽くすこと、好奇心、視野の狭さの獲得(個の細部まで見る)が
彼らの好きなことで、目的であると感じます。

狭く深く、地下にエレベーターでどこまでも降りていくイメージで、内向的な(意識が内・精神に向いている)のではないでしょうか。

情熱的で完璧主義であるといえるかもしれません。

そのため、ある人・食べ物に一度興味を持ったら、死ぬまで愛し・やり続ける傾向にあるように思います。

私人(プライベートに生きる人)であり、スペシャリストであると言えるのではないでしょうか。

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3.このような秀才とこのような天才が出会ったらどうなるのか、少し考えてみました。

人間関係において、秀才は理性的に広く浅く付き合おうとして、天才は情熱的に狭く深く付き合おうとしていると予測します。

すると、秀才は、天才とある程度仲良くなっていたいはずですが、天才は、ある程度では不満か、ある程度も仲良くなりたくないはずです。

そのため、天才に対し、みんなと同程度に接しても無視されるので、秀才は狼狽してやきもきする、という絵になるか、天才に対し、みんなと同程度に接したら、ぐいぐい興味を持たれすぎて、秀才は狼狽して逃げる、という絵になるのではないでしょうか。

ですが、もしそうであるならば、衝突や誰ともわかりあえない孤独感から、個の世界に閉じこもりがちな天才に、偏見なく近づき、一口味見し、その一口分の彼の世界を多くの人に公開し、彼を孤独から救うのは、秀才であるのかもしれない、と思います。

他方で、秀才は、すべてのものに普遍的に適応される法則や規則が、天才の味に触れたことによって修正に迫られ、ある程度は天才の世界をもっと知りたくなるのかもしれない、とも思いました。

ここ迄読んでいただきありがとうございました。
今日も良い一日をお過ごしください。