自分いじめと自己鍛錬の違い
自分いじめ、とは、自己否定を意味するとします。
1. この時、自己否定と自己鍛錬の違いは、
第一に、自己否定を行う目的が、(1)自己否定を行うこと自体か、(2)それ以外か、ということのように思います。
例えば、自身がモテないことを責めている人がいるとします。
もし、彼/彼女が、責めること自体を目的としているならば、どこかでモテないままでも仕方がないとも思っているため、モテない現状を維持するように行動したり、他者からは愚痴を言っているように聞こえたりするのではないでしょうか。(なぜモテないのか、と問う)
一方で、もし、彼/彼女が、モテない自身を責めることを負荷とし、モテる自身を目指しているならば、モテるような行動やそれにつながる行動をするのではないでしょうか。(なぜモテないのか、と問う→どうしたらモテるのか、と問う)
ただし、上記のような自己実現のための目標達成までの間に、同一人物の中で、自己否定と自己鍛錬との間を行ったり来たりする場合があるかもしれません。
そのため、一概にあの人/自分は自己否定の人だ、あの人/自分は自己鍛錬の人だ、と特定しようとするのは意味がないように感じます。
ところで、自己否定にも、厳密には、自身をいじめることで他人からいじめられても傷つかない、といった自己防衛的な目的(「自分はもうこんなに弱っているから攻撃しないでほしい」と訴えて自身を守ろうとすること)があると思います。
ゆえに、最初に述べた違いは、自己否定の目的が、(1)自己防衛的なものなのか、(2)自己実現的なものなのか、と言い換えることができるかもしれません。
2. 第二に、自己防衛と自己実現の違いは、今現在の自己を受容しているか、否か、ということだと思います。
そして、自己受容とは、自身に対する周囲の評価や自己評価といったものから喚起される感情から逃げずにこれを受け止めている、ということではないでしょうか。
(恥ずかしさ、焦り、不安、怖れなどの負の感情だけからでなく、喜び、嬉しさ、楽しさなどの正の感情からも目をそらさないことを含みます。例えば、褒められても、「どうせこの人はお世辞で言っている」「この程度しか褒められない」と思わない、ということです。)
さらに、感情から逃げている、とは、感情に振り回されている(感情に追い回わされて意志がブレている)ことを意味し、
感情を受け止めている、とは、感情に振り回されていない(感情に立ち向かえるブレない意志がある)ことを意味しています。
ゆえに、まとめれば、(1)自分いじめは、意志が感情に振り回されている状態で(自己防衛のために)自己否定を行っていることであり、
(2)自己鍛錬は、意志が感情に振り回されていない状態で(自己実現という目的に向かって)自己否定を行っていること、と言えるでしょう。
そのため、両者の根本的な違いは、自己否定を意志によって制御できるか、制御できないか、ということにあるのではないでしょうか。
3. 逆に考えれば、自分いじめから脱出する方法は、(1)意志を立て直すか(目的を持つ)、(2)自身が自分をいじめている、ということを自覚して、これを許すか(自己受容)ではないかと思います。
感情を、穏やかにもなり荒れ狂いもする海のようなもの、意志を、そこに浮かぶ船のようなものとすると、正確な羅針盤を持っていれば、荒れ狂う波に惑わされず舵を取れるようになれますし、羅針盤が狂っても、荒れ狂う波に逆らわずに乗っていればいつか波はおさまるということです。
海の上にいるのに波から逃げようとしたり、荒れ狂う大波が怖いのでこれから目をそらして航海しようとすると、船が転覆するというわけです。
ここ迄読んでいただきありがとうございました。
今日も良い一日をお過ごしください。