分析と持論を書いていく処

分析・仮説・持論を滔々と述べています|異論は認めます│こんな世界の見方もあるのだなという気付きを得て、楽しんでいただいたり、問題解決に役立てていただければと存じます

不治の病である性格

これは日本社会に限る話かもしれませんが、個性が大事などと叫ばれながら、実は社会において生き残る為に必要な特性はかなり限られているように思います。

それ故、その特性をまずは突き止め、これを身につけることが先決で、個としての確立は二の次なのではないかと思うことが多いです。

しかし、同時に、性格とは不治の病である、と思うこともあります。

努力して覆そうとすればするほど身体的に負荷がかかって死に近づき、かといって何もせずそのままにして覆そうと抵抗しなくても社会的に負荷がかかって死に近づくようなイメージです。

例えば、自分の場合、日常的に新しい変化を感じられていないと、不眠に陥り衰弱しました。これに関しては、諸説あると思いますが、個人的には、身体的・遺伝的な力を感じました。

そのような時、“皆が出来ることが出来なくては生きてはいけないのか”“ならばなぜ私は生まれたのか”“なぜ私は世界に拒絶されるのか”、のように思うことが絶望であるように思います。

しかし、同時に可能性が狭まり、余計なものが削ぎ落とされ、自分の進むべき道が見えてくるようにも思います。受動的・主観的に言えば、“その道に呼ばれる”“使命”といったイメージです。

もう一度繰り返して言えば、努力すればするほど、自分の中の覆せないものが強固に大きく見えてくるように思います。努力だけではどうにもならないものが見えてきてこれが立ち塞がるように思います。

例えば、平等を意識すればするほど、不平等に突き当たり、自由を意識すればするほど、不自由に突き当り、快楽を意識すればするほど、苦痛に突き当たるように思います。

そして、それは性格の改善・矯正に対しても当てはまるのではないでしょうか。

しかしそれ故に、その行き詰まりは自身の性格を浮き彫りにするのかもしれない、という話をしています。

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また、このような性格は、ニーズがあれば才能などと呼ばれるのかもしれません。

しかし、自身が自身の性格を才能と呼べば、それは上記のような苦しみを抱える劣等感を優越感に読み替えて自身を慰める呼称に過ぎないように思いますし、他人がそうしても、それと同じであるか、単に性格やそれに伴う上記の感情への無理解の容認による呼称であるように思います。

故に、個人的に、“才能”という言葉に対して良い印象はありません。