究極的に真面目であろうとするならば、不真面目でもあるという矛盾が生じるのではないでしょうか。
というのも、真面目であることで自身が崩壊しないように真面目に不真面目さを取り入れるように思うからです。
詳しく言えば、真面目である為には、先ず自我という意識と身体が必要であるから、これらの維持の為に不真面目さが必要であるように思うからです。
この順序を誤るならば、自我は、意識していないもの(例えば、恐怖や欲)に真面目であるよう強いられており、また自我は、そう強いられようとしているのではないでしょうか。真面目であろうとしているのではなく、それに忠実であろうとしているのではないでしょうか。