分析と持論を書いていく処

分析・仮説・持論を滔々と述べています|異論は認めます│こんな世界の見方もあるのだなという気付きを得て、楽しんでいただいたり、問題解決に役立てていただければと存じます

無欲という能力

1. 人間には必ず欲があり、それゆえ必然的に人間は欲から行動する、という前提に立つと、全ての言動の理由を欲へ求めるようになるのではないでしょうか。

例えば、「愛している」と言うのは、相手の何かしらが自分に都合がいい、利益をもたらすからだ、と考えるように思います。

つまり、「役立っている気持ちになる」とか「相手に優しくすると周りから褒められて優越感に浸れる」とか、「丁度力試しのサンドバッグになる」とかいったものです。

「愛されている」と思うのも、同様に、「相手の警戒心を解いて自分への協力を促せる」とか、「この人を信じた自分の選択は正しいと思う」とか、「自分に危害を加えられにくくなる」とかいった理由付けで考えるかもしれません。

アメリカの心理学者アブラハム・マズローによる欲求5段階説を持ち出せば、食欲・性欲・睡眠欲・安全欲・愛情欲・所属欲・承認欲・自己実現欲のうちのどれかに結びつけて理解しようとするかもしれません。

2. 対して、このような欲がないということは有り得るのでしょうか。

もし、欲がなくなれば自身の行動の原動力が枯渇し、経済に反するようになるとも思います。(派生して、経済学は欲求についての学問であるとも感じます)

それでも、いや、そうだからこそ、この経済的な考えという束縛から逃れる逃避地として、欲がないということは有り得ることなのでしょうか。

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3. もし欲がないことが有り得るとするならば、そのような人は無欲な人間ということになります。

a. 無欲な人間とは、欲を行動の動機としないですから、与えるだけ与えて、受け取るだけ受け取るのではないでしょうか。

ゆえに、欲のある他の人の目には、無限に気前が良く、無限に強欲であるように映るように思います。

b. また、そのような人は、欲のために思考を使用せず、感情のために使用したり、思考そのものを無意味に使用するのではないでしょうか。

器が大きいとも言えるように思います。

c. 与えるだけ与えるため、無限に搾取され得ますし、またそれで全てを失っても何かしらを受け取り続け、自身は十分満たされていると思うと予想します。

どんなに要求されてもこれに応えようとしますし、無限に与えられても拒むことなく感謝とともに受け取るのではないでしょうか。

そうであるとするならば、一文無しにも大金持ちにも・独りにも大勢にもなり得て、そのどちらであっても、十分に足りていてると思うような、振れ幅の大きい人と言えるかもしれません。

つまり、大きなことをする人、大勢の人や大金が動く原因となる人と言えるように感じます。

e. 逆に考えると、常に満たされていると感じることを目的とすれば、無欲になるといえるように思います。

このような人は、自分が満たされることで周りも満たされる、と考えているようにも思います。その点では赤ん坊のようなイメージかもしれません。

自分が満たされる(喜ぶ、笑う、楽しむ)と周りが苦しむ、と考えることはなく、自分が満たされると周りも満たされることをするように思います。

f. 与える(give)/奪う(take)という性質が人にはあり、これによって人は分類され得る、という考え方に立つならば、彼らは、奪う者が満たされて奪うものがなくなるほど圧倒的に与えるように、奪われることを恐れてはならない、与えられたものは遠慮なく受け取るように、といった思考を繰り返しているのではないでしょうか。

また、与えるだけ与える人の周りには、利用できると考えるような奪う者も寄ってきますが、同類だと共感した与えるだけ与える人や、そのような人に憧れた与えたい人も寄ってくるように思います。

ゆえに、意図的に無欲であろうとする人は、後者の人たちと仲良くなるためにそうするようにも思います。

ここ迄読んでいただきありがとうございます。
今日も良い一日をお過ごしください。