分析と持論を書いていく処

分析・仮説・持論を滔々と述べています|異論は認めます│こんな世界の見方もあるのだなという気付きを得て、楽しんでいただいたり、問題解決に役立てていただければと存じます

支配欲のある者の生存戦略は、自身の支配下に置く配下を増やして自身がルールの国を作ることであり、支配欲のない者の生存戦略は、これを受け入れるか、配下に置かれ搾取されないように、その者を大勢の者ともに失脚させようと抵抗することであるのかもしれません。

これには、絶対王政とこれに対する革命に似たものを感じます。

そもそも、テストステロン値が高くなればなるほど、攻撃性は高くなり、性的欲求も高まり、支配欲も強くなると言われています。

そしてこれは、実行力や闘いに勝つ力、つまり、欲求により目標をたて、攻撃性により自分より力のあるものに挑戦する危険をおかし、これを自身の制御下に置く、といったことを可能にする気がします。

自然を支配下に置こうとするいわゆる西洋的な価値観とも関係するのかもしれません。

そしてそのような価値観が多くの者に利益をもたらせば、その者たちから称賛され、受け入れられますが、そうでなければ、非難され、拒絶されるのかもしれません。文明とはそうやって発展してきたのではないでしょうか。

従って、現代において、他者を自身の配下とみなし力により従わせようとすることが問題となるのは、もし歴史を肯定するならば、その者の攻撃性・性的欲求・支配欲という点からではなく、それらを利己的に利用する反社会性の露見や、それらを制御する理性の力が劣っていること(例えば虐めることによって得られる快楽の中毒になっていること)や、先見の明が無い思慮の浅さ(物事を長期的にみれない・実行できない、計画性がない)や、リスクヘッジのできない認知能力の低さや判断ミスという点からであるように思います。

酒池肉林を行ってばかりいたり、考えの無い君主が、王の資格がないと民から突き上げを受けたり、すぐに国を滅ぼすことは、歴史からみてもあり得る、と説明できるのかもしれません。

経営であれ家庭であれ、自分がルールの王国をつくるならば、それなりのリスクがあるように思います。

例えば、今現在は、国家による法や憲法という枠組みがありますから、自身が国家元首になり、さらに独裁が容認される時勢にならない限り、それらを無視した自分のルールを打ち立てることは、当然それらによる制裁を受けるリスクをおかすことになるのかもしれません。 

そしてそもそも法による制裁は、国に住んでいる人が自分一人ではないことから、他人のルールと自分のルールが対立することがあり、そうした対立を解決するために個人の権限を制限するという目的で存在しているように思います。

そのような背景やリスクを見失ったり、上述したような支配を問題化させる原因を改善しなかったり、単純に運が無かったとき、個人による支配は、“dv”や“ハラスメント”や“犯罪”とみなされるのだという気もします。

f:id:give-info:20201117044730j:plain