他者への貢献とはなんぞや?
1. 人のため、社会のため、とは何をすることなのでしょうか。
社会的評価を得られること、需要の多いこと、に対し、自身を改造する、或いは、自身の能力を活用することでしょうか。
それは教養でしょうか。勉強することでしょうか。
人のため、社会のためなら、自己犠牲も自己犠牲と思わなくなるまでに、自身を律することが可能となることでしょうか。
2. ところで、「貢献」と認められるには、成果を求められるように思います。
それは、伝統を理解し肯定する人々が、「成果である」と認める成果であったり、多くの人の価値観に左右されにくい数値であったりするのではないでしょうか。
この場合、以上の行いのうちに、自身の楽しみ・好み・欲求・意志は存在しないのでしょうか。
このような社会的評価を信じ受容し、これを得ているものに価値を見出し、これを手に入れることに誇りを感じることが必要なのでしょうか。
3. 上記のような貢献ができる、ということに関して、悲観的に考えるならば、まず自身の好きなことを優先するとよいのではないかと思います。
この場合、自身の欲求や感情を容易にコントロールできる、という考えには懐疑的であり、これを自身で行うことに精一杯で、他人に奉仕する余力はない、という考えに立っているように思います。
A. そして、他者にしてあげたいことは自身が予測したことに過ぎないのだから、他者への奉仕は、自身の欲求から行っているに過ぎず、結局、自身への奉仕に過ぎない、と考えて、自身は利他的なことをしている、という風には考えないかもしれません。
B. また、意識・意志によって自身の欲求や感情の抑圧をしないため、それを発散する場が必要になり、いわゆる感情・欲求の借金(ストレス)を抱えるということがないように感じます。
C. さらに、このような意志による判断は、なるべく偏見のない自由な視点から決めているので、責任を伴うように思います。
そして、自身で責任を取る、と決めて他者に対して行う行為は、見返りを求めず、他者は、それを嫌がっても、拒絶しても、貶しても、喜んでも、感謝しても、冷笑しても、バカにしても、無視しても、悲しんでも、苦しんでも、楽しんでも、自由であることになるように思います。
つまり、自身の行為を行う時、そこには自分の意識だけが存在するように思います。
このような考え方が根底にあると、相手に見返りを求めたり、ストレスが溜まったり、どれだけ自身が貢献しているかを誇示したり、それによって競争したり、といった、上記のような貢献から遠ざかる要因になり得ることが起こりにくくなるように思います。
4. そして、そのような立場に立つならば、自分ができることを、自身で責任を取りつつ行い、それによって他者が喜んだら、これをメモして行い、他者が嫌がったら、これをメモして行わないようにする、ということの繰り返しが、他者への貢献である、と感じます。
そして、他者が喜ぶか嫌がるかも、不変ではないので、打率を上げるようにして、何度も何度も行うイメージです。
まるで、実験を行い、実験結果を理論値に近づけていくようでもあるのではないでしょうか。
5. まとめれば、自由に基づいて選択し、その選択肢に対し責任を取るという立場に立ちつつ、他人の求めることに関心を持ち、これを行っていく、ということになるかもしれません。
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