通念に逆らう人々
A. それなりの出来で満足し、自分はそのままで価値があり、なにも無理に変わる必要はないと思い、水の流れに身を任せるように生きれば、日常のちょっとした喜び、例えば、異国のつまみやワイン、人に与え与えられること、季節を楽しむ服や靴といったものを社会は提供し、また、自分はこれを受け取ることができるように思います。
通念に自分を合わせるよう努力し、それなりに奉仕し、それなりに受け取れば、自身の精神は安定し、無刺激で堅実な生活を営むことができるのではないでしょうか。
そこには、足るを知る幸せがあり、全てへの感謝があり、共同体を意識した幸福おいて、必須の価値観であるように感じます。
これを信頼する決意がある人は、賢いように思います。
B. 一方で、通念に逆らい、流れに身をまかせず、何かに囚われ、執着し、それを辞められないと、幸福は感じず、居場所が無いように思い、精神も安定せず、自信を失い、周囲へは感謝ではなく不満を感じるようになるのではないでしょうか。
日常の喜びを感じられなくなり、大きな喜びを空想の中で求めるようになるようにも思います。
このような人々には、個人的に次のような印象があります。
ある一つのことに没頭してこれをすることをやめられない。日常のちょっとした幸福を失い、周囲から見放され、嘲笑され、いじめられ、忘れられ、傷つき孤立し、泣き、何度もそれをやめようとしても、やめることができない。やがて、やめることを諦めるようになる。スマートな大人の雰囲気とは対極的で、幼児のようで、精神的に未熟で、バカで狂っているように見られる。
彼らは、一歩間違えれば、依存症患者であり、自分を理解してもらえないことへの怒りが募れば、周囲に害を与える人物となり得るのかもしれません。
ところで、このような人は、通念の通じる共同体とは異なる位相に生活しているように思います。例えば、自分独自の世界に、数学の世界に、芸術の世界に、未来の世界に。
彼らは、通念を共有する人々とは異なる真実を見ており、異なる価値観を持ち、異なる言葉を話すように思います。
ゆえに、彼らを、情熱的なリーダー、天才と形容することもできると感じます。
社会が、行き詰まり、または、何かに揺り動かされ、賢い市民に日常のちょっとした幸福を提供できなくなったとき、彼らの視点が突破口となり、社会は大きな問題を解決し、やがてまた安定するように思います。
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