自立と道徳の関係
怒りとは、多くが、恐怖による自己防衛、嫉妬による自己拡大を望んでいるということを、自分で認識することをしない為に起こる感情であるように思います。
故に、怒りと欲を肯定し、自立して生きるということは、俗にいう道徳的には「悪」とされることを許容して生きることになるのではないでしょうか。
例えば、「リスクをおかすのが怖いので自己防衛に徹して苦しむ他人に手を差し伸べず見てみぬふりをする」「自分より良い評判を得る他人の評判を陥れようと行動する」ということは、道徳的には「悪い」性質・事実だとみなされるのではないかと思います。(そうではない道徳の解釈も数多くあります)
そして、そのような関係が生まれるのは、そもそも、そういった道徳が、人間関係・共同体を維持する為に存在するものであり、それらの維持には、自立と共に依存も必要になるからではないかと予想します。
つまり、自立を目指す態度が、道徳の存在する理由と相反する為に、自立して生きることが道徳的な悪を許容して生きることになるのではないか、という主張です。
因みに、このように考えると、道徳的に善である生とは、依存的な生ということになるのかもしれません。