目的(快/苦)と手段(方法論)
A.
1. 第一の考え方として、学校/社会は、やりたくないことを頑張ってできるようにする方法論と精神を学ぶ訓練場である、というものがあると思います。
それは、適切に社会へ適応し、適応できなかった場合に生じるであろう更なる苦を回避すること(適応できた場合に生じるであろう更なる快を享受すること)を目的に行われるイメージです。
2. その結果、そのための手段の効率化やスピードアップに勤しむようになるように思います。
つまり、論理、マニュアル、方法論、形式、情報処理、といったことに興味を持ち、いかに目的までの道のりを最短最速で行くか、ということに快や美を感じるようになるのではないでしょうか。
例えるならば、苦の回避/快の享受という解答を持つ問題を、なるべく速く正確に解決する式を模索するようになる感じです。
3. すると、「何が苦/快か」「苦/快とは何か」というように、目的の内実を問うことはしなくなるように思います。
目的である苦の内実は、データによりただ与えられるもの、とりあえず措定するもの、既存で一般的なもの、になっていくように感じます。
すると、苦/快について、独自の、或いは、新しい定義を問うたり、それらを生み出すことはしなくなるのではないでしょうか。
4. そうなると、彼らの目的は、苦の回避/快の享受から、これにたどり着くまでの方法の精鋭化(実効性アップ、時間短縮など)、或いは、その方法が自分の思い通り働くこと、にすり替わっているように思います。
つまり、目的を達成する手段が目的となっている、のではないでしょうか。
5. そして、この場合、目的達成が速くなればなるほど、感情・感覚は感じられなくなり、また、それらは速さを妨害する邪魔なものとして、抑圧されるべき対象とみなされるようになるとも思います。
そうすると、①最早彼らにとっての快/苦は、感情的・感覚的な快/苦を意味しなくなるか、或いは、②それらを放棄して、結果、感覚的な苦の除去(快の享受)という目的を忘れ去ることになるように感じます。
6. まとめれば、学校/社会に適応する(優等生になる)と、感覚・感情そのものを失ったり、これに関する独創性を失ったり、感覚・感情がもたらす目的を見失ったりする可能性がある一方で、手段としての方法論に特化するようになり、これに関する独創性を得る可能性があるのではないか、という主張です。
B.
1. 第二の考え方として、学校/社会は、適応は棚に上げ、個人の好きなことややりたいことをできるようにして、嫌なことややりたくないことをしないようにする方法論と精神を学ぶ場である、というものがあると思います。
そう考えた場合、自身の欲求に基づいた世界が出来上がり、これに外界を適応させるようになるとも思います。
2. 自身の目的である快/苦には多様性が出てきて、独創的になるように思います。
まとめれば、学校/社会に適応しない(劣等生になる)と、手段としての方法論の独創性を失う可能性がある一方で、感覚・感情がもたらす目的を見失わず、これに関する独創性を得る可能性があるのではないか、という主張です。
C. つまり、Aの考えは、手段と目的がすり替わることから、手段である道具的要素(知識、論理など)に依存的であるのに対し、Bの考えは、目的と手段が常に区別される必要があるので、目的と手段の双方に依存的なのではないでしょうか。
また、Aの考えは、目的や手段に感覚・感情が伴わず、時間・空間依存的であるのに対し、Bの考えは、目的や手段に感覚・感情が伴い、感覚・感情依存的であるといえるのではないでしょうか。
ここ迄読んでいただきありがとうございました。
今日も良い一日をお過ごしください。