分析と持論を書いていく処

分析・仮説・持論を滔々と述べています|異論は認めます│こんな世界の見方もあるのだなという気付きを得て、楽しんでいただいたり、問題解決に役立てていただければと存じます

市場価値に基づき行動する目的は何か?

A. 自身が全体の中でどこに位置するのかを把握することは、客観的に(間主観的に)自身を見る、市場価値を把握する、などと表現されるように思います。

そして、このような把握は、仕事で必要であるとみなされ、その意味で良いもの・必要なもの・正しいものとみなされることが多いと感じます。

というのも、その把握に基づいて行動すると、お金や名誉や地位を得やすいからではないでしょうか。

つまり、お金を儲けたいならば、そして、社会的賞賛、地位などを得たいならば、自身の能力が希少であるような市場でその能力を売れば良いわけです。

B. このような考えをした場合、二つの疑問があります。

a. 一つ目は、買い手の責任能力(自身の購買行動によって被った利害を自分のせいにすること)を信用しているのか否か、ということです。

そしてこれを、①信用しているとしたら、どこまでか、②信用していないとしたら、なぜ客観的把握に基づいて販売するのか、という二つの問いに分けてみます。

①について、例えば、欲望の抑制のきかない子どもがずっと「チョコレートが欲しい」と言っており、自身がチョコレートを沢山持っている場合、彼/彼女にチョコレートを与え続けていいのでしょうか。

利益を最重要視する売り手は、買い手を商品に依存させれば長期的に利益が得られる、という風に考えるように思います。

そう考える人が居た場合、売った商品により買い手がどのような害を被るかについては、全くの自己責任であると買い手を突き放してよいのか、突き放すとしたらどの程度突き放すのか、という点が気になります。

良質な(ここでは過度に商品に依存させない)商売をしなければ、売り手の信用・評判が落ちるため、悪質な(ここでは過度に商品に依存させる)売り手は自然に淘汰されていく、という風に考えることもできます。

売り手と買い手の争いになったとしても、調停によって相対的に良し悪しが決定する、という風に考えることもできるかもしれません。

ですが、そのような良し悪しの後ろには、多くの人が「良い」と思っていることに合わせている売り手が、買い手にとって良い売り手である、という前提があるように思います。

民主制ゆえの現象なのかもしれませんが、多数が受け入れる=良い、少数しか受け入れない=悪い、という考えです。

ところで、常に多数が受け入れるものを買う人には、責任能力があまりないように思います。

そしてそのような人が一定数混ざった多くの人々に商売を行う場合、売り手は、そのような人から「購買により害を被った」という風に加害者とみなされるリスクがあるのではないでしょうか。

一方で、そのような人の責任能力を信用せずにパターナリズムを発揮して商品(あるいは能力)を多くの人々に合わせて売らなければ、多くの買い手(需要)を失うのではないでしょうか。

この場合、より大きなリスクを取れる人(つまり、より信用する度合いが高い人)がより利益を得るのでしょうか。それとも、多くの人々の中から、流されやすい人を見分け、そのような人を避ける手立てを設け、販売するのでしょうか。(オンラインサロンという形態は後者であるようにも思います。)

もしくは、このような話は、結局のところ、倫理と算盤をバランスさせることが妥当であるという答えに行き着き、起業家らの課題となるような話なのでしょうか。

②について、もし買い手の責任能力を信用していないのに商品を売る売り手がいたならば、その人は、利益に依存している人であると予想できます。

そのため、行動の動機は「制御できない欲求」であるように思います。

つまり、意識と行動が一致している限りで、売り手と買い手の性質は似るといえるようにも思います。

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b. 2つ目は、主観(絶対的な基準)を見失うリスクがあるのに、なぜそのような行動を取るのか、ということです。

ここでいう主観とは、自身の世界であり、自身の絶対的な基準であり、自身の絶対的な自己評価であり、自身のアイデンティティを意味しています。

自身の市場価値(相対的な基準)を基に行動することは、自身が自身に対して行う絶対的な評価、即ち、自己受容や確信を脇に置くということになります。

①すると、個人としてのアイデンティティを失い自分が何者かわらなくなったり、自身の感情に目を向けるために、刺激の強いものに依存してしまうリスクがあると感じます。

また、自身と外界との区別がつかなくなり、外界にいる他人を制御・束縛しようとしたり、彼らに対し過度に要求してしまうことによって、独裁者の持つ類の問題を引き起こすようにも感じます。

②また、相対的に唯一無二であることを自身のアイデンティティとして求めると、ナルシシズム傾向が強くなり、自身を援助する人が離れていくというリスクがあるかもしれません。

そのため、以上二つの疑問は、以上のような諸々のリスクを負い行動してまで手に入れたい目的は何か、という問いに行き着くのかもしれません。

例えば、ハイリスク・ハイリターンのスリルを好みゲーム感覚で行動していると予想した場合、目的はスリルであることになります。

ここ迄読んでいただきありがとうございます。
今日も良い一日をお過ごしください。