分析と持論を書いていく処

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繊細な人の人生

前日の記事(https://give-info.hatenablog.com/entry/2020/01/30/235828)の続きです。

繊細な人は、その対処法である次の3つの方法を行き来したり、1つの方法をとって生きることになるように思います。

1. ①回復

回復をする、とは、上記のような感情の全てを感じるということであるように思います。

そのため、回復に人生を費やすと、泣いて笑って怒って苦しんで、その場で自身の感情に共感し続けるような、感情に浸る・溺れる人生になるようにも思います。

回復を繰り返すと、人の傷を癒やす才能になるのではないでしょうか。

自立を諦め依存に甘んじることを肯定する傾向にもあるように思います。

イメージとしては、次のようなものがあるように感じます。即ち、死んでまた生き返っての繰り返し、再生、転生、これらへの信用と確信、私を強い不死鳥のような自分として扱って欲しいし、あなたをそう扱いたい、といったものです。

思考の傾向としては、ボトムアップであったり、男尊女卑的、逆にフェミニズム的、内集団バイアスにかかりやすい、上下関係を肯定する、というものであったりするように思います。

回復できないと諦めると、防御や麻痺へ向かうのではないでしょうか。

②防御

ここでいう防御とは、感情を感じると辛いため、これを感じる頻度を落とすということを意味しています。

怒りは、喜びや悲しみなどの一次的な感情に蓋をする二次的感情とも言われていますから、主に怒り・欲求のみを感じるという状態であるように思います。

また、感情をあまり感じなくなると、感情の起伏が減少し、淡々と情緒が安定した状態で生きることになるのではないでしょうか。

自己コントロールを徹底し、論理的で、傷をそのままにした状態であるとも思います。

闘いの人生であるとも感じます。

防御を繰り返すと人を守る才能になるのではないでしょうか。

「あれはしてはならない」「あれはして良い」というルールが増えるように思います。

依存を負けとしてこれを恐れ嫌う自立的な傾向にあるようにも感じます。

イメージとしては、次のようなものがあるように感じます。即ち、諦めない、負けない、希望を捨てない、死ぬことだけはしない、忍耐、気概、これらへの信用と確信、私を英雄として扱って欲しいし、あなたを英雄として扱いたい、といったものです。

思考の傾向としては、トップダウンボトムアップの間であったり、男女平等であったり、非干渉であったり、競争肯定、というものであったりするように思います。

防御がうまくいかないと諦めると、回復や麻痺へ向かうのではないでしょうか。

③麻痺

ここでいう麻痺とは、後天的にサイコパシーが高い状態を意味しています。

つまり、欲のみを感じるか、何も感じない、という状態です。

自己中心的(奪われないことと奪うことに注意が向いている状態)で、恥を感じない、罪悪感を感じない、恐怖を感じない、痛みを感じない、という状態であるように思います。

また、このような状態になるのは、自分の感情も他人の感情もわからなくなるほど、強い麻痺が起きているためであるように思います。

そのような麻痺の中、感情を求めて行き着く、或いはかろうじて感じられるのは、怒りと欲であるのではないでしょうか。

やがて怒りも麻痺すると、感じるのは強い欲(マズローの五大欲求や物欲)のみになり、麻痺させればさせるほどこれは強まるように感じます。

イメージとしては、次のようなものがあるように感じます。即ち、人も動物も木も石も平等に静的な物体である、静的な世界を手に入れるためにうるさい感覚・感情には蓋を、感情を麻痺させることができることへの確信、私を物として扱ってほしいし、あなたを物として扱いたい、といったものです。

思考の傾向としては、トップダウンであるように感じます。

無感覚・無感動であるように思います。感情に向き合わない、自身の繊細を認めない、ということを極めた結果で、悲しみも喜びも苦しみもなかったことになるのではないでしょうか。

感覚と感情自体が存在すること自体の否定や、感情・感覚そのものへの疑いがあるように思います。

それらを忘却することで、それらを克服する才能があるように思います。

都合の悪いこと(意に沿わないこと)を無視する人生であるようにも思います。

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2. ②と③と①は、いうなれば、漫画、七つの大罪でいう、メリオダスと、魔人になったメリオダスと、エリザベスみたいな関係のように感じます。

プラトンの『国家』における、国民・兵士・知者みたいな関係かもしれません。

この場合、知者とは制度という物そのものであるとも感じます。

3. ②のように、守ることを徹底する者は、回復する者を努力を放棄した怠惰な敵とみなすように思います。これは、彼らが、もうこれ以上傷つくことがあってはならないと考えているためである、と予想します。

一方で、①のように、回復することを徹底する者は、守る者を嘲笑するように思います。これは、彼らにが、傷つくことがないなど不可能で、防御などは無駄な足掻きであると考えているためである、と予想します。

そうであるとするならば、①と②の立場をとる者は、互いに、目をそらしても常に隣り合っているように感じられ、互いの価値観の対立に疲れてしまう傾向があるのではないでしょうか。

そのため、どちらも強く、どちらも自身への愛からくるものであるから目的は同じであると考え、互いのミスを補い合い、互いを信じ、委ね、自愛という目的を二人で達成することで、この対立は収まるように思います。

4. また、③であることは、愛のない強さという武器・手段であるように思います。

そのため、これをとる人は、合目的的、目的に対して誠実である、目的達成を強く目指す傾向がある、とも言えるかもしれません。

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