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相手が喜んでいるか幸せであるかは、相手が決めるのであって、自分が決めることではないのかもしれません。また、逆も然りである(自分が喜んでいるか幸せであるかは、自分が決めるのであって、相手が決めることではない)のかもしれません。
ましてや、正しいか正しくないかを個人が決めることはできない気もします。(ポジショントークとしてこれを主張したり、社会的に法がこれを決めることはあるかもしれません)
自分は正しい・相手は正しくないと盲信し、或いは、自分は相手を喜ばせている・幸せにしていると盲信し、その基準を、外部の他者である相手へ、その相手からの承諾を得ずに、無意識的に(意識的に)適用するから、その者との関係が壊れるのだと感じます。
特に、自立的・自律的・自閉的である者との関係ほど壊れうるように感じます。
このような基準の適用は、自身の勢力を拡大する為の戦略としては有効かもしれませんが、一方で、その者の価値観への侵略のようなものであり、奇襲をかけたようなものである気がします。
以上は、個人差に焦点を当てた主観主義(価値は客体によって決まるのではなく主体が決めるとする考え方)的な話であるかもしれません。